My Plan for Future : ミライヨソウズ
初版:2008年10月08日
自分の経験を活かして、国際協力の世界で活動できるか努力してみる。
自分の中途半端さの克服&人のために役に立ちたい・・・それが協力隊志望の動機で、協力隊後のことは二の次。協力隊が終わってからのイメージは、協力隊参加後もはっきり持っていませんでした。そうではあるけれど、この協力隊訓練~派遣・任期満了帰国~自費再渡航~帰国までの2年半、私はたくさんの経験をさせてもらえました。
> たくさんのパキスタン人によくしてもらった。おまえは大事なお客さんだよって大切にしてもらった。
> 旅行も楽しかった。街角の食堂で食べたカレーや紅茶は忘れられない。
> まじめに仕事をしたかな?私は根はだらしないから、ホドホドに仕事するだけでのんべんだらりと過ごした時期も、家に引きこもったこともよくあった。
> イライラしてパキスタン人とケンカしたり、同僚に意味なく当たったこともあった。
> クローズな日本人社会に息苦しさも感じるって思ってイライラしたこともあるし、
> かなり便利に快適に過ごせるイスラマバードの暮らしに、「協力隊=アフリカの井戸掘りみたいな」を想 像していた気持ちとのギャップに悩んだこともあった。
そんなことをゴチャーっと経験しているうちにあっという間に2年間が終わったような感じですが、帰国後そういう自分に正直に向き合うと、自分の力の無さや、自分の人間としての器、度量みたいなものの小ささ、を思い、「協力隊に行ったんだぞ」って思い上がって生きてはいけないと強く感じています。現地で「協力隊活動をしている!」という気持ちの高揚感、陶酔感みたいなものに浸っていたところから、帰国し日本の一市民として&協力隊OVとして暮らしはじめると、スポットライトが当たらなくなって周りがよく見えるようになったような心地で、いろいろな気づきが出てきました。それは↑にもあげた自分のネガティブな部分だったり、意識の外に置いていた自分の嫌いな部分・苦手な部分だったりします。それは2006年2月に自費渡航を終えた後、大阪でアルバイトをしながら過ごしていた頃に嫌と言うほど感じ、そしてそれは札幌に戻って養護学校で仕事をしている今も考え続けていることです。そんな煩悶する日々は自分にとってマイナスであったのか?いえ、私はこれがもっとも自分に必要なことだと思います。1998年に夕張で学級担任の仕事を任期途中にして辞めて以来、少しずつだけど自分と向き合い、「自分に足りないもの」「自分がやり残してきたこと」を埋め合わせる努力をしてきましたが、協力隊の経験を経てから、自分に欠けていて、肝に銘じていきたいと思うことが「動じず 人を思いやり よく見聞きし分かる 器を持つ」
よう努めること、であると思っています。自分に正直に向き合い、自分の言葉で率直に気持ちを表現しよう、そういう風に自分なりに努めているところです。
それと、最近の私が変わったと思うのは、コツコツ計画的に物事に取り組むことができるようになってきたということです。その理由は、自分で決めた「協力隊に行って帰ってくる」ことを果たしたことも大きかっただろうし、札幌に帰ってきて、高等養護学校の木工科の実習担当の仕事をやりきったことも大きかった。木工科3年生9人の実習題材の下準備・手直し・毎日の授業の流れの想定や段取りなどありとあらゆることを先輩の先生に教えを乞いながら、全部自分が責任者としてやりきれたこと、これがとても大きな自信になりました。その期間は朝6時半に家を出て、実習や他の学校の仕事もこなして家に帰るのが夜9時10時というのが毎日続きました。土日も朝から夜になる頃まで出勤してどっぷり木工の仕事に浸かりました。そういうポジションにつけた幸運がありましたが、ある程度の形になるところまで仕事をやりきるという経験ができると、それが次は英語の学習にも結びついてきているように思います。さぁ、これから、私はどう進んでいこうか?年齢も年齢で、進路カウンセラーの方からは就職や結婚といった大切な部分をどうしっかり考えているの?と問われます。で、就職です。札幌に来て2年が過ぎました。高等養護学校での木工の仕事は大変でしたが、子どもを鍛えているという充実感がありました。担当している子どもたちもとてもいい学年集団で温かい子どもたちばかり、教師の醍醐味のようなものを感じることがよくありました。じゃ、教員採用試験をもう一度受け直して、教師生活を全うしたいか?というと、その高等養護学校での2年間、そしていまの肢体不自由養護学校での講師生活にあってもそういう気持ちになれません。ピッタリな表現がないのですが、その教員の世界に落ち着いていられないだろうな、そういう気持ちなのです。夕張の中学校の特学担任をしていたとき亡くなったM君のこと、転勤して父母からお預かりした1年生の子どもたちの担任の仕事を途中で投げ出したこと、協力隊に行くと決めて教育大に入り直したこと、訪問教育で出会った子どもたち、函館の学校で出会った子どもたち、今もその子どもたちの事は忘れません。絶対に忘れられません。その思いに、イスラマバードの任地の学校で出会った子どもたち、マイルストーンはじめ出会ったパキスタンの障がい当事者の方たち、パキスタン地震で救援活動のお手伝いをしたとき出会った子どもたち、それにインド・コルカタで出会ったストリートチルドレン、どうやって生きているんだろうと絶句したドブのようなところにうずくまる人たち・・・そうした忘れられない人々や街並、風景や匂いや音の記憶が触れると、心は海外へ向くのを押さえられません。年齢のこと、圧倒的に不足する語学や教養・・・ハードルは高く、ハンデはむちゃくちゃありますが、人生輪廻するとしても、この身の人生は一回きり。状況が許される限り、自分が納得できることをやろう、コツコツ努力することができるようになりつつあるから、その思いが空回りせず具体的な努力として噛み合っていくかもしれない、そう思って毎日を送れることに感謝しています。(2008年10月08日)協力隊で出会った仲間を大切に、いつかみんなの交流の場・ほっと落ち着ける場を作りたい。
派遣前訓練で初めて顔を合わせた平成15年度1次隊(駒ヶ根)220名の同期のなかま。入所したときから、全員と話をしたいという目標があって、食事のたびに違うグループのところに行って話をしたりといったことをしていました。それで、220名全員とまでいかなかったのですが、それでも200人近くの方とは短くでも話のやりとりをするところまでできました。派遣前訓練(私たちのころは79日、いまは65日だそうです)が終わってそれぞれ任国へ旅立てば、もう全員が揃う義務はありません。任国が違えば一生会うことがないってのもありえます。でも、それはイヤだ、当時から私はそう思っていました。漠然とですが、協力隊参加→結婚・進学・就職→第2の人生みたいな同期のみんなの人生の歩みを思ったとき、いつか必要なときには集まれる、頼れる、そういったつながりで私たち15-1は有り続けたいと願っていたように思います。そして、任期満了後の2005年8月。駒ヶ根訓練所で同窓会を開くことができました。任期延長や帰国後の都合が変わったりで参加できない方も多かったけれども、60名弱の同期が集まることができました。この時は派遣前訓練時の所長を務めておられたHさんはじめ語学講師の先生や職員の方、所外活動先の農家の方もかけつけてくださりで忘れられない思い出の2日間となりました。それからの同期のみんなの歩いていった道は、帰国後3年を過ぎるいま本当に様々だと、近況を聞くたびに思います。いろいろな事情で連絡がとれなくなっている方も少なくありません。でも・・・・・・・・・・・・・・・。5年後10年後20年後50年後になっても、会えばきっと時間の壁は瞬時になくなってうち解け合って話ができるのが協力隊員だと思います。生まれ育った環境は違えど、こころには同じようなベクトルを持つからでしょう、共感できることわかり合えることがとても多いのです。ですから、協力隊員同士で結婚することが多いのももっともなことだと思います。15-1同期会といった組織的なものは何もありませんが、そうしたつながりを取り持つ役割のひとりでわたしはずっと有り続けたいと思います。いまは、細く長くボチボチとですが、できるかぎりの同期のみんなとのつながりの糸を大切にして、いまの予想では、みんなが子育てを終えたころ、ひと段落させたころ、15年後20年後を目標に、日本のどこか、できれば大好きな北海道に自分の居場所&交流のできる場を作りたいと思っています。(2008年10月08日)
初版 2008年10月08日
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